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2017
世界は出来事の総和であり、物の総和ではない / ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
“The world is the totality of facts, not of things.” / Ludwig Wittgenstein
To design ‘totality of fact’ / 「出来事の群れ」を設計する
—東京で初の屋外写真祭、どのようなことを考えてデザインしたのですか?
屋外展示であるので「誰もが楽しめる」ということを重要視していました。つまりいろいろな人たちに対して、開かれている状態を作る必要がありました。そこで今回の展示デザインで取り組んだことは「出来事の群れ」としての屋外写真祭です。建築家は都市や空間と人の関係性を設計していく仕事だと思っています。建築とは人が使うことで意味が生まれる空間なので、私は「物」としての建築を目的につくるのではなくて、建築と人が生み出す「出来事」を目的につくろうと考えています。
上野公園には楽しそうな人もいますが、時につらそうな人もいる。一人の人もいるし、修学旅行の団体もひっきりなしに来たりする。いい意味ですごく雑多なんです。だから、ただ写真祭を公園の中に囲われた物として挿入しても誰のモノでもなくなってしまうおそれがありました。逆に、誰かが自由に過ごしていて、もうすでにそこにある時空間の側(がわ)にある写真祭にしたいなと。つまり、街を歩いている日常と地続きで、ふと写真と出会って、観てると沸き上がってくる新しい気づきを心地よく感じながら、また風や木漏れ日に誘われて、気づいたら次の作品にたどり着くという。そんな誰かの日常のなかで起こる1つの出来事として、さらにはそれらの群れとして写真祭が位置付けられたら、写真作品がより多くの人、より多くの感情に対して接続しやすい存在になるんじゃないかと考えたんです。
—展示には竹が使われていますが、どのような思いがあったのですか?
上野公園という場所自体の歴史や意味を紐解いていきながら、写真と空間の関係性をどうやって生み出すかに多くの時間を費やしました。見る人の気づきや発見がないのでは、出来事としての強度が弱い。だからその場所ならではの新しい写真の見え方になっていたり、そこにしか起こらない見る人の姿勢が生まれたりする展示デザインを様々試行錯誤しながら考えました。
上野公園はかつて寛永寺というお寺の領地であって、そこに重要な位置づけとして竹が植えられていました。いま姿はなくとも、「竹の台噴水広場」という名前として残っています。
今回、展示の構造として主に竹を使いました。場所の記憶と人を繋げることでサイトスペシフィックな出来事としての深度が深まりました。
また、風になびきながら平面を張れる材料として竹の弾性もとても有効でした。竹を使うことで、どのように写真面が支えられているのか、あえて少し揺れる程度の骨組みとすることで、力の流れが感じられる構造にしています。公園の中にある看板などの工作物は一般的に、コンクリートや鉄ばかりで、とても安全で土木的なものばかりです。今回は10日間の展示だったので、逆に20日持てばいいというレベルまで‘安全’の度合いをデザインし直すことで、風を受けたり、水面に揺れたり、自立させずに木に支えてもらったりしました。力の流れが1/1のスケールで実感できる「ヒューマンな構造力学」とすることで、竹の構造自体も見る人それぞれの経験の一部になるインスタレーションとして考えました。実物での実験を行って、十分な強度性能を確保していて安全であることも検証しました。
また、会期中だけではなくて設営中の風景も公園の日常の一部としてデザインしています。竹は木や鉄よりもずいぶん軽くて、女性一人でも運べます。大がかりな重機ではなく、植木屋と大工の小さな道具だけで施工できました。通常上野公園で大きなイベントを行う際は、屋台みたいな簡単なものでも鉄の構造でつくり、そのためにトラックやクレーンが何台も来て立入禁止エリアを大きく区切って設営されるのですが、そのすぐ隣にも公園の日常を楽しみに訪れた方がいて、とても不釣り合いに感じていました。ですので、今回の写真祭の設営工事は公園の一部として相応しい感じにならないかと考え、簡単な造園的要素だけで設営できるということも、竹を選んだもう1つの理由として重要だと思います。
—屋外で写真を展示することをどのように工夫したのですか?
今回は写真家がこの現実世界をどう切りとったかという最も根源的な‘フレーミング’だけにしたいと考えました。普段、美術館など屋内で写真を見るときは、フレーミングが重層的にあると思うんです。プリントの余白、額装、展示室、そして建物自体。そうやって入れ子状にして日常と距離を離すことによって、作品の抽象度を高めている。でも今回は、屋外に飛び出すことで、いかに写真が日常に近寄れるかという問いを自分に課して、いろんなフレーミング要素をそぎ落としていきました。だから時に風で揺れ、光も差しますが、そうすることで公園という公共空間において写真がもっと新鮮で、もっと強烈な見え方になるのではと思ったわけです。
写真家と展示について話を進めるなかで面白いと思ったことがあります。私は普段から空間を扱っているので、立体的な体験にしたいという思いがあったんですね。一方写真家は作品が四角い平面であることにこだわられていて、私にとってそれは大きな学びでした。たとえば山本渉さんの展示。当初は山本さんが作品制作のために葉っぱを採集する行為を、鑑賞者にも追体験してもらおうとしたんです。写真が印刷された傘みたいなのが林の中に散らばって浮いていて、くぐって入ると作品と対峙するという。そのうち山本さんと私とで対話しながら考えるようになり、最終的には、いかに四角い平面に留まりながら屋外という無限に広がる世界での面白さに到達できるかという、逆説的に立体的な展示をすることができました。
—実際に展示がはじまって、どのようなことを感じられましたか?
会期が始まると、これまで写真作品に触れたことがなかった方々が不意に写真を目撃し見入ってしまって、作品を感じとっていました。上野公園の人種の幅と場の使われ方は本当に多様で面白いのですが、いろんな方にとって各々が過ごしている日常の側(がわ)に写真が存在できたことがやはり面白かったですね。このことを社会的な視点で言えば、理想的な「公共空間」のヒントになっていたように思います。多くの人々が勝手気ままに存在するだけではなくて、写真祭が目に見えない「出来事の群れ」として共有され、時間と空間が繋がっている様相を示すことができた。それでいて写真や出来事が誰か別の人のためではなくてその人自身のものになっているという状態です。
今回のように写真と建築が一緒になって取り組んだように、協働という関わりが、より社会的で公共的な活動を生み、それが新しい創作のかたちになっていけるのではないかと考えています。
Phat Photo vol.100
「国際フォトフェスティバル T3 Photo Festival Tokyo レポート」
平井インタビュー記事より引用加筆。